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私心記-心識ノ言

人に対する寂しさ

雨で進めていないが、昨日から描き出した場所。
ただ、小降りになったので来てみると、汚らしいという理由で潰されていた。とても色々な面で残念なこと。自分と近い世代の人から以下は違うと信じていたい。
へし折られた花の中から少し持って帰って描くしかないが、現在は空間も考慮した描写なので壁とテーブルの間をあけた。
しかし、満開の花らを次々とへし折っていく神経は理解出来ない。
その心が汚らしいと想うことはお互い様なのか。
じいさんらの本当の動機による。

覚悟の箇所

覆い被された自己という意識は、それより遥かに大きい歪みによって確認出来る。
自己という意識を確認している、遥かに大きい意識。
人々がつい安定、安心を求めてしまう性は、歪みのない場所への帰還願望による派生と読んで、いつまでも帰還出来ない(しない)我々によって自動的に進められる、地球、政治、経済、自然など、全ての分野の歪みをなくしていく運動と、それを阻む衝動。
何も起こらなければ退屈してしまう人達にとって、とても住みにくい世界へと進んでいる。
ただ我々はいずれ歪みのない場所へ帰還すると思う。 おそらく場所でも何でもなく、2年ほど前の個展で「源」と言っていた広大な意識のようなものに溶け込む。
溶け込めない者の再来。
そして溶け込まない者の再来。
両者が揃う限り、衝突は避けられないが、高い位置での衝突を目指す。
その頃大切になる高品質な衝突。それを可能にするために目の向け所、想像力、しいては意識の改革が必ず必要となる。すでに昔からなっている。
老人になり、横たわる中で気付くこと。それは言い換えれば気付けていたこと。目を向けなかっただけのこと、覚悟を後回しにしてきたこと。

8年目

丁度8年目に入った。初めは渋々ながらも、現在では当然のように振舞っていただき、(当然のように描き)周囲の方々に支えられ、絵に関わるまでの自分より強く、今日まで生きています。
本当に感謝でしかありません。
そして制作では色、線。より丁寧に慎重に、率直に。新たな発見が多いこの頃。
この年に試作品が出来るだろう、という願いへは順調に進んでいて、それが出来れば、積極的に作品を知らせることも具体的に動き出す。
それまでは、(それからも)自分の活動は描くこと。 少しでも心が精神がブレてしまっては、応援くださっている方々に失礼であり、未来の自分に示しが付かない。

色彩と線

色を使うとき、どうしても塗りたくってしまう癖があった。描き跡をそのままにすることで線にもなることを今知った。
色=塗るは自分ではなかった。

束縛

縛り付けて捕らえるとある。制限を加えて自由を奪うとある。
しかし、自由が自由を奪う。
制限が自由を創造させる。
厳しい制限の中に、創造性は根を張る。

無題

違和感がいつまで経っても払拭出来ず,,, こんなときには決まって、自分は救いようのない馬鹿な人間だと自身を底へと沈めていく(実際に馬鹿だとは重々承知している)。
そして深い空虚に浸ってしまうのだが、これも言い換えれば、根拠のない自信のみで続けてきている者が持っている置いていけない荷物なのだ。
自信が過ぎれば病む。しかしそれを恐れては続けられないし、進まない。

願いと想い

何にも惑わされず、遠回りもせず、ただ「自然」と向き合っていれば、純粋な作業は淡々と進む。時折寂しさに、虚しさに覆われたとしても、それも慣れてしまえば、ただ続けていればやがて陽が射す。
やがて陽が射すことを信じれなくなるなら、その虚しさの中で続けることを覚悟すれば、その虚しさは自分の味方なのだから俯く必要はない。

目を開いて

何かを反対するのは、何かを賛成させる力を生む。
そもそも自身の外部にフォーカスしてしまう意識の向きがおかしい。
「わたし」という以外に、その人による本当の真実はない。
心のずっとずっと深い場所で一致団結しているからこそ、現在の私たちが地球に在る。

しかしここで、行動、活動が重なる一致団結は、各々の心がその集団内部によって黒く上塗りされていく。集団に関する全て。私たちはそれぞれひとりだ。

いつの時代もそれを知らせようとする人が居る。
ただそれも人間なので大概自身と比較し飲み込むことが出来ない。
だから神聖化させているのもある。それでも効かない。むしろ曇らせる。
ではどうすればよいのか。
直接心に針を刺す。実体験として。
痛いかもしれない。気持ちいいかもしれない。手段も反応も人による。
未だこの現状。手段が尽きてきている状況で人間ではどう示すのか。
反対に、心へ届かぬ膜を張る勢力への視線を、益々強固なものにしようとする手段も雑になってきている。
「個人を尊重」ではない。
各々がわたしという自身の心を尊重すること、私自身に思いやりを持つこと、私自身を信じること、その土台の上で身体の持っている限り、それを活用する、ことをする。
そこからようやく目を開ける。
「目を閉じて」は「目を開いて」を意味する。

昨日の窓の落書きに出会ったからか、窓を描きたくなり自室を描き出した。無意識が窓を選択している理由はなんだろう。

中央へ

もっともっと細く続く先の、茨の道のずっと先へ。兎に角中央へ。

雷が鳴った。上を見上げると「自分の意識面積が虹色になった」と秒より細かい単位で刻まれる流れの中すぐ後に「これか!」と思った。そしてそれはあそこの虹に変わり距離が生まれ、写真を撮った。全てにおいて大きな体験だった。
そして描いているときこれを感じていたことにも気付いたが、これほど大きなことが起こらない限り、自覚するのは難しかったのかもしれない。

創造

現在の勇気ある果敢な行動は、後に誰かが手を差し伸べたときに、その手に何を持たせるのか,何も持たせないのか、などを知ることに繋がっている。それによって得られる幸福感は、現在にかかっている。
現在を怠るならば、それを真剣にこなした際に得られる未来の幸福感を逃す。
現在は自分のためだけにあるが、それはいつの日かの誰かの為にでもある。正直に果敢に生きることは未来を同時に創造している。

無題

人によって様々な感想を抱かせる作品は、様々な心境のようなものを持ちながら制作されたものであろうから、制作する際の心境なのか環境なのか(感情は論外、ゼロで制作)をシンプルに、ほぼ何も無いのと同じくらいに研ぎ澄ませていけば、ひとりの鑑賞者の抱かれる感想はそれは皆平等に感じるということに繋がり、共有度が増す。
何も無いという作品において自身を見つめることへと感想が進むならば、それがたったひとつの「自分を観る」というだけの感想である。
しかし鑑賞者にとって、これは寂しいと感じられる方が、その寂しいという感想を他者へ共有しようとしたとき広がりは起きない。そんな行為を呼び起こさせないように、作品自体の完全性、それ以前に作者自身の完全性が必要となる。
作者自身の完全性とは、線を引いたとき、色を置いたときに感じるそれである。それが全ての線、全ての色に移すのは神業としか言いようがないが、出来るかもしれないという期待がこれからもずっとずっと描かせる。

無題

絵を描くのは身体ありきの時空で、対象には捉えようのない、全て在り、全くない感覚を描くという矛盾したざらつきの、ひとつひとつの凹凸は柔らかく、こんな最大とも想える矛盾を迎える状態で最も近く自分と会える。

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